2010年6月6日日曜日

チーム医療の壁 後編

予想外に1ヶ月かかってしまいましたが、チーム医療の壁シリーズ、最終回です。
これで、このブログを始めた理由の8割くらいが終わってしまうのですがw
まずは伝えるべき事を伝えることに専念します。


これまでの中で、これからの医療体制を守るチーム医療には「他職種連携」「交代勤務制」があると言いましたが、そのどちらを実現するにも欠かせないものが一つあります。
それは、「国民(患者)の主体性」です。

どれだけ医学が発展しようが、どんな医療制度をしいていようが、医療者は結局のところ国民のライフサポーターでしかないのです。
医師・患者関係という言葉は、患者主体という意味と裏腹にその責任を医師に求めるときに使われてしまいますが、それは大きな間違いです。
その「いざというとき」に自分の生命・生活を守るために最適な手段として医療をどの様に利用するか、「普段から」国民一人一人が自己防衛として考えていなければ、医師患者関係など成立しないのです。


人は、必ず老い、病み、死んでいくモノです。
死ぬまで病院と無縁と言うことは、現代日本ではまずありえないということを、日本人は理解しなければなりません。
そして、医療というモノは軍隊と同じで、自分の都合の悪いときに使い捨てることもできない性格のモノだということを知る必要があります。


抽象的な話ばかりになってしまったので、そろそろ具体的な話に移りましょう。



日本でチーム医療が進まないのは、実は制度的な理由があります。それは日本医療の美点とされるフリーアクセスです。




情報というのは、集約化されているからこそ生きるものです。





病気になるたびに医療機関を変えられていては、医師は点でしか患者を把握できません。継続的な診察あってこそ点は線となり、まともな医療が行えるのです。





もちろん、病状によってはいつもと違う医療機関に行かざるをえないこともあります。そうした場合に力を発揮するのが、いつもの医療機関から発行される紹介状です。
こうした情報の連続性あってこそ線は面となり、医療システムがその真価を発揮できるのです。
この情報の連続性を守ることができるのは、患者自身でしかあり得ないのです。

「かかりつけ医を持って下さい」「紹介状を持ってきて下さい」というのは、病院のためではなく患者自身のためなのです。
自分は医療について素人であり、治療は医師に任せるというのであれば、最低限この程度の「自己責任」は果たすべきなのです。


逆に医療システムに頼らず、文字通りフリーアクセスで全てやるというのであれば、これだけの情報量を自己管理しなければまともな医療は受けられないという覚悟を持つ必要があります。
別に脅しているわけではなく、現実問題です。そして、これは決して不可能ではないのです。
以前、学生の時に留学中のアメリカ人の問診をしたことがあるのですが、その人の病歴と生活歴のプレゼンテーション能力には舌を巻きました。ベテランドクターの症例報告以上で、自己管理という言葉の意味を思い知りました。

かの自由の国は、その代償として自分の身を守ることも自己責任であり、その中で生き残った人間が社会の中心を構成しているのです。これは、日本はアメリカに勝てるわけがないと痛感したのをよく覚えています。
「フリー」というのは、そのぐらい重いものなのです。
権利を行使するからには、それに相応する責任を負わなければならないのです。
日本人のどれだけが、そうした自己責任を果たせているでしょうか?


またその一方で、自己責任さえ果たしていれば何をしてもいいわけではないのが医療です。
医療は患者個人のものではなく公共性の高いものです。
この「公共性」というのもくせ者なのですが…この言葉もたいていは医療者に無茶苦茶な責任や義務を押しつけるときに頻用されますが、それは明らかな誤用です。
「公共財」を守る責任は、その地域住民にあるのです。


例えば公園ですが、一人の子どもが遊具を延々占拠していれば教育されますし、真夜中に爆竹鳴らせばお巡りさんの出番です。
そうした当たり前のことが、何故か今の日本の病院では当たり前でなくなってしまっています。
公共財だからこそ、利用者がマナーを守らなければならないのです。 




これからの日本の医療はどうなるか
それを決めるのは、医療者ではなく、国民なのです

0 件のコメント:

コメントを投稿